ネームを描く前に、必ず毎回、プロット以上シナリオ未満のような文章を書く。
ページ数とか盛り上がりとか、計算が入っているのでだいたい観念的で辻褄があってて破綻がないものができるのだけど、自分で毎回書きながら、それをつまらないなぁと思って、書き終える。
次に、出来上がった文章を横に置き、紙を前にしてネーム(絵コンテ)を描き起こしていく。
すると、初めてそこで身体感覚と結びついて、観念で構成してたものが壊されて、予想外の、自分が想像しなかった漫画が目の前に現れる。
ここが一番楽しいところです。
この知らない扉を自分で開けていく感じが非常に大事で、ネームに描く段階で、あらかじめ書いておいたストーリーからは外れるし、自分でも想像してなかった部分が見せ場になったり、最後も全く別の着地をする。毎度、そうです。
だから、ネームを描くのは楽しい。
自分がその漫画を初めて読むから。
例えるなら、プロットで書いてる段階は、地図を見ているようなものであり、ネームに描く段階は、実際に街を歩いて見ているようなものである。
地図ばかり見て想像していても、歩いてみないとわからない。
歩いてキョロキョロしてみたら地図ではわからなかった面白い場所を発見したりする、ということです。
では、地図なんか捨てて最初から街に出ればいいじゃない、という声も聞こえてくるんだけど(頭の片隅で自分が言っているだけかもしれないが)、地図すら持たずに知らない街を歩くのは怖いわけです。
街のあっちにはいい景色が見える坂があるぞ、こっちには川があるぞ、反対側は行き止まりだぞ、ということくらいは予備知識として最初から頭に入れておきたい。
だから、退屈だなぁと思いながらも、地図はちゃんと用意だけはしておく。
自分で言うのもなんですけどこういう用心深さだけはなぜかしっかり備えているので、「仕事」として継続してやってられるのだろうと思います。
ちなみに、そうやって完成した漫画を、「自分の作品」として世に送り出すわけですが(そうするしかないから)、ここが妙な感覚で、そもそもその完成作品というのは、「最初は自分でも想像してなかったもの」なわけです。自分にとっては。
でも、読者からすれば描かれていること全て「作者が想像したもの」ですよね。それ以外ない。そういうものとして手に取り、読まれる。
だから、感想を拝読していると、「そこは自分も想像してなかったんだよなぁ」「そうなっちゃったんだよねぇ」などと、読者の感想と作者である自分の実感がマッチしない部分が出てくるのです。これは決して読者の方が悪いとかこういう風に読んでくれとかそういうことが言いたいわけではなくて、そういう不思議な感覚があるんです、ということをお伝えしたくて。誤解なされませんように。
だから、もう、この10年くらいは、そういうものだと思って受け入れています。
自分の手を離れた作品は、作品そのもので生きてる。
これを「人格」になぞらえて「作品格」と自分で勝手に名前をつけて呼んでいますが。
あくまで、僕個人としての考え方ですけどもね。
人が人として存在しているように、作品は作品で存在していて、読者一人一人のものになってくれたらそれでいいなと思うわけです。
だから、読者の数だけ多様な感想があるのが自然です。
作者は、作って世に送り出すまでが仕事で、そこから先は、作品自身で生きていくもんだよね、と。
無責任というのとは違うんですよね。
責任はあるので先々まで面倒はみますが、生き方に関しては作品自身に任せているという感覚ですかね。